完璧であること

こんばんは。

 

今日は、私が所属している団体が参加する報告会が大学でありました。

学生の身分ながら(なので?)、私は色々とやっております。

 何をやっているのか、何を報告したのかは書けませんが。

 

ちなみに報告者は、なんと私(ともう一人)。

よく噛みます。人前はだめです。

ですが、頑張りました。笑

発表を終えてみると、意外と周りからは「良かったよ」と言っていただけて少し調子に乗っていた私ではありますが、後悔もあります。

 

報告を終え質疑応答に入り(全ての質問に私が答えました笑)、下手なりに返答をしていて「ギリギリ答えられているのでは?」なんて思っていたのですが、唯一その中で全く上手く答えられなかった質問が。

よくよく考えれば答えられる質問だったのですが、咄嗟に答えが思い浮かばず、つい「分かりかねます。」と答えてしまいました。

質問者のいかにも「うーん…」と思っていそうな表情を見て、なんだか「申し訳ありません」と側まで行って謝りたい気分になりました…

 

あぁ…

 

質疑応答を終え席に戻った時に、その質問の答えが浮かびました。

 

あああぁ…

 

周りからのお褒めの言葉と、個人的な後悔とが入り混ざって、何と言うか、試合には勝ったのにその試合のプレーを顧問から怒られたような気分に。分かりますかね?笑

 

何かを完璧に出来た事なんて、これまでほとんど無いのに、どこかしら完璧主義な私自身が少し嫌になります。

そして死ぬまでこの私と一時も離れずに付き合っていくのは、疑い無くこの「私」しかいないことを思い知ります。

 

私は嫌な(だった)事を引きずりがちな人間なので、おそらく今日の出来事も数日間は引きずります。そしてうっすらと忘れかけている時に、なぜかふと今日の事を思い出して、また自己嫌悪に陥るでしょう。

 

こんな事を今後も繰り返してゆくのだとは思いますが、それでもやっていくしかないという事もまた思い知ります。

 

とりあえず、なんとか自己肯定感を高めねば。笑

 

ということで、今日はこの辺りで。

世間の狭さについて

こんばんは。

 

つい数分前に世間って狭いなぁと感じる事がありましたので、今回は世間の狭さについて思っている事を綴ります。

 

さて、何があって世間の狭さを感じたのかと言いますと、まず私は塾講師をアルバイトでしているのですが、たまたま昨年持っていた受験生(高3)と私の幼なじみ(4月から社会人)が、なんと付き合っていた(る)のです。

 

だから何だよって話ではありますが、何と言うか、そんな事あるのかよと個人的に思うわけです。

 

巡り合わせがすごいな、と。

たまたまアルバイト先で関わりを持つようになった子と、たまたま親同士が仲良くて幼なじみになったやつが、たまたま付き合っている、と。

 

ただそれだけの話なのですが、にしても世間って狭いなとつくづく思うのです。

私は前回に書いたように人を選ぶので、自身が所属している(と感じられる)コミュニティは少ないはず?なのですが、その数少ない繋がりの中でも意外な組み合わせが出来上がったりするものなのだなと。

そして、そんな風に出来上がる組み合わせは、いつも私を驚かせる形でしか現れないなと思うわけです(まぁ意外と書いたので当たり前ですが)。

 

前述の話だけを取り出すと過度の一般化になりますが、やっぱり世間の狭さってあるなと感じます。

広いはずなんですけどね。私が思っている限りでは。

 

「なぜ世間は思っている以上に狭いと感じるのか?」についての研究とかってあったりするのでしょうか?

もしこれを見て誰か知っている人がいれば教えてください。笑

 

というわけで、今回はこの辺りで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「選択」

こんばんは。

 

唐突ではありますが、今回のタイトルは「選択」にしました。

そして何についての「選択」のことを書くのかというと、ずばり「人」です。

「人を選択する=選ぶ」ということについて書こうと思います。

 

私は、この上ないくらいに付き合う人を選びます(というより、いつの間にか選ぶようになってしまいました)。

その結果として「友達」と呼べる人は、昔よりも格段に少なくなったような気がします。

単純に嫌い、あるいは苦手な人は言うまでもなく、元々めちゃめちゃ仲が良かった人でも、面倒だと思えば付き合わなくなりました(面倒だと感じ、これ以上付き合うのはやめようと相手に対して思う機会は案外多くあります笑)。

周りは私の事をどう思っているのですかね…

おそらく何とも思われていないでしょうが。笑

 

友達って多い方が良いのでしょうか?

学問的には(社会学とか社会心理学とか?)、人間関係においては当たり前かも知れませんが多くのネットワークが張り巡らされている方が良いらしいです。

 

多い方が良いのか!?

確かに「友達が少ない」と言うよりは「友達が多い」と言う方が社会的には良いのかも知れません。

友達100人出来るかな~♪なんてかわいらしい歌もあったかと思いますが、私としては実際に友達が100人もいれば、相当面倒なのではないかと思いますが…

 

そもそも「友達」と言える基準って何なのでしょうか?

例えば、仮に私がAさんを「友達」だと思っていても、もしかしたらAさんは私を「ただの知り合い」としか思っていないかも知れません。

かと言ってAさんに「私たち友達だよね?」と尋ねるなんてことは憚られますし、そんな質問をする勇気が私にはありません。 

 

ただ私は、よほど恋愛的な意味合いで相手に好意を抱いていない限り、相手が私のことを「友達」とカテゴライズしていようと、「ただの知り合い」とカテゴライズしていようと、そこまで私に悪影響が及ぶことは無いのではないかと思います。

多くの場合、私が「友達」と思っている相手は私のことを「友達」と思っていますし、私が「ただの知り合い」と思っている相手は、私のことを「ただの知り合い」と思っています(確証はありませんが)。

 

そんな事を考え始めるとキリがありませんが、「友達とは何ぞや?」と考える事それ自体は、とても大切なことなのではないかと思います。

 

私の中で「友達とは○○である」と明確な答えを持っている訳ではありませんが、何となく思うことは、自分の「居場所」になってくれる存在の事を「友達」や「友人」と呼ぶのではないかという事です。

そして「居場所」とは、紛れもなくその当事者自身が居心地が良いと感じられる場所だと思います。

 

私は初めに『「友達」と呼べる人は、昔よりも格段に少なくなったような気がします。』と綴りましたが、前段の理論でいけば、私には『「居場所=居心地が良いと感じられる場所」が少ない』ということになります。

それを可哀想だとか、寂しそうだとか思う人もいるかとは思いますが、私は決してそうは思いません。

 

居心地が良いと感じられる場所なんて、1つあれば十分だと思っています。2つ以上あると感じるのであれば、それは非常に恵まれているのではないでしょうか?

それに、行く所全て居心地が良いと感じるなんていうのは、普通はあり得ませんし、もしそうであるのならば、その人の器がよほど立派か、例外的に本当にそうであるかのどちらかだと思います。

 

「人を選ぶ」という行為は、自分が幸せになる、少なくとも自分を不幸から遠ざけるための行為だと考えています。

そして「人を選ぶ」という行為の裏を返すと、私も「人」から選ばれているということになりますし、私がその「人」から選ばれたのであれば(もちろん私の方からお断りの場合もありますが笑)、その「人」のことを私は幸せにする、少なくとも不幸から遠ざける存在であらねばならないと思います。

 

そんな風に考えると、「友達が少ない」という悩みを抱えている人は、その「数少ない友達」のことを、その「数少ない友達」の友達よりも幸せにする、少なくとも不幸から遠ざけるよう

にすれば良いのだと思います。

そうして互いを幸せに出来るようになれば、人間関係のネットワークを下手に増やすよりも、よほど人としての円熟味が増すのではないでしょうか(若造が生意気を言ってすみません)。

もっとも「友達を増やしたい!」と思っているのであれば、頑張ってねとしか私は言えませんが。

 

こんな感じで、第3回目にしてかなり長くなりましたが、今回はこの辺りで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

経緯

こんばんは。

 

第2回目の投稿は、このブログを始めるに至った経緯について書こうと思います。

 

元々ブログを書くということに興味はありました。けれども実際に「書く」ことには抵抗があったり、そもそも続けられる自信が無かったり(私レベルのブログは続けなくても良いとは思いますが)…

 

ただ、悩み事などを含め日々思うことを何かの形にしたいという欲求?が自分の中に在り続けたので、ノリに近い形ではありますが思いきって始めることにしました。

 

別に誰にも見られなくても、仮に誰かに見られたとして、そこで共感を得てもらえなくても、それで良いと割りきって書きます。

 

しかし、そのわりには丁寧語で書きますし、挨拶もします。笑

なぜかというと個人的には丁寧語の方が気楽に書ける感じがするからです。たまに丁寧語じゃなくなることもあるかと思いますが…

挨拶もなぜ書くのかといえば、例えば今回なら初めに「こんばんは。」と書きましたが、それがあった方が書いているその時、言い換えれば書いている間の時間感覚が私の中ではっきりするような気がするからです。

別に書いた後でも、いつ書いたのかは分かるのですが、朝昼晩のいつくらいに書いたのかというその意識はなぜだか明確に持っていたい訳でして…

 

別に日記とかでも良いのでは?と思うことも

もちろんありますが、日記は物体としてリアルに残ってしまうので、それは勘弁という感じなのです。

それに、日記はペンが必要になります。そして日記帳自体も必要になります。

それに比べてブログならスマホでもパソコンでも気軽に書けます。

この「気軽さ」に私は負けてしまい、今に至った次第であります。

 

そんな私の母親は日記を欠かさず付けておりまして、私が幼い時からずーっと書いています。

日記帳に向き合い、細々と書き連ねる姿は、ある種のかっこよさのようなものを感じます。

母の日記に何が書かれているのかはあまり知りませんが、母いわく、「お母さんが死んだ後なら読んで良い」とのことなので、おそらく母は人生を全うする直前まで日記を書くことでしょう。

 

ではでは、第2回目の投稿はこの辺りで

 

 

 

 

 

 

 

 

平凡人ブログ

はじめまして。

誰が見るのかは分かりませんが、ブログを始めました。

平凡人の日々の断片を綴っていきたいと思っています
(どこまで続くか甚だ疑問ではありますが…)。

少し自己紹介を。
私は関西在住の若者で、今は某大学に通う学生の身分であります。

私自身の事や、日々の出来事、そしてこのブログを始めた経緯については、追々綴っていこうかと思っております。

第1回目の投稿は、もうこんな時間(深夜2時)なのでこの辺りで。